財布を捜している男
【小話】
会社の帰り、飲めないお酒をのんでちょっといい気分でいつもの駅を降り家の方向にむかって歩きだして、公園の横をとおりかかったところ、 その脇の小道で下のほうを見ながらうろうろしている男がいた。
どうしたのかと聞くと酔っ払って背広を振り回し、財布を落としたのだという。
金額はたいしたことは無いのだが鍵が入っていたので家に入れなくて困っているとのこと。
では一緒に探しましょうということになり、具体的にどのあたりで落としたと思うのか?ときいてみた。
すると男は、むこうの暗がりのあたりだと思うという。
ん?むこう? じゃなんでむこうじゃなくってここであなたは探しているの?
そう聞いたところその男は、”ここは電気がついていて明るいからだ”と答えた。
でも、”落としたのはあっちの暗がりなんだよね????”とのわたしの問いにその男は、”暗がりじゃ見つけにくいじゃないか”と?,,,
出所は忘れましたが、こんな笑い話を聞いたことがあります。
この財布を落とした男のことを、私たちはなんだそれ、そんな明るいところに都合よく財布があるわけ無いじゃん、財布が自分で動いてくるの?
可笑しいよねと笑うことはできますが、はたして自分が同じようなことをしていないのかと尋ねられてよくよく考えて見ると???なケースが多いことに気が付いたりします。
いつのころからそういうことを無意識でやっている日本人が僕を含めて実は沢山いるような気がします。
それは入試突破のテクニックで、わからないものに関してもそれなりの答えを出してとにかく合計点を最大にしなさい、なんてことを考え出したのが原因なのか?
はたまた結果よりもそれを解決するための過程(プロセス)が大事、 努力が大事なんて思いに傾きすぎたからなのか???
とりあえず原因はよくわかりません。
それが、仕事上査定に響くのであえてそうするという戦略をもってのことであればそこに別の意味はあるのでしょう。
けれどもたとえばそれが投資の世界で、その探すという作業の結果が自分のお財布の中身のみにかかわる場合においても私たちはこういうことを惰性でやってる場合がありませんでしょうか?
苦手な分野に取り組む。。。 分からない分野にとりくむ。
これは確かに効率が悪い話ではあります。
もっとも真理がひとつであるかというとそうでもない場合があります。
しかしながらその真理が自分の都合にうまく合致してくれているかどうか などということはまったく関係が無い場合のほうが多いんじゃなかろうか? とも思います。
むしろ自分が苦手であったという理由のみで、そこにいくことを今まで避けていた分野があれば、あえて非効率でもそこにいってみてとにかく最初めんどうでもそこで探してみるという作業をしてみたら
実は予想だにしていないほど簡単に結果を得ることができたなんてこともまったく無いとはいえません。
しかし、そこにない物はなく あるものはそこにしかない場合が極めて大きいのです。
※ mixi に書いた昔の日記を転載しました。
会社の帰り、飲めないお酒をのんでちょっといい気分でいつもの駅を降り家の方向にむかって歩きだして、公園の横をとおりかかったところ、 その脇の小道で下のほうを見ながらうろうろしている男がいた。
どうしたのかと聞くと酔っ払って背広を振り回し、財布を落としたのだという。
金額はたいしたことは無いのだが鍵が入っていたので家に入れなくて困っているとのこと。
では一緒に探しましょうということになり、具体的にどのあたりで落としたと思うのか?ときいてみた。
すると男は、むこうの暗がりのあたりだと思うという。
ん?むこう? じゃなんでむこうじゃなくってここであなたは探しているの?
そう聞いたところその男は、”ここは電気がついていて明るいからだ”と答えた。
でも、”落としたのはあっちの暗がりなんだよね????”とのわたしの問いにその男は、”暗がりじゃ見つけにくいじゃないか”と?,,,
出所は忘れましたが、こんな笑い話を聞いたことがあります。
この財布を落とした男のことを、私たちはなんだそれ、そんな明るいところに都合よく財布があるわけ無いじゃん、財布が自分で動いてくるの?
可笑しいよねと笑うことはできますが、はたして自分が同じようなことをしていないのかと尋ねられてよくよく考えて見ると???なケースが多いことに気が付いたりします。
いつのころからそういうことを無意識でやっている日本人が僕を含めて実は沢山いるような気がします。
それは入試突破のテクニックで、わからないものに関してもそれなりの答えを出してとにかく合計点を最大にしなさい、なんてことを考え出したのが原因なのか?
はたまた結果よりもそれを解決するための過程(プロセス)が大事、 努力が大事なんて思いに傾きすぎたからなのか???
とりあえず原因はよくわかりません。
それが、仕事上査定に響くのであえてそうするという戦略をもってのことであればそこに別の意味はあるのでしょう。
けれどもたとえばそれが投資の世界で、その探すという作業の結果が自分のお財布の中身のみにかかわる場合においても私たちはこういうことを惰性でやってる場合がありませんでしょうか?
苦手な分野に取り組む。。。 分からない分野にとりくむ。
これは確かに効率が悪い話ではあります。
もっとも真理がひとつであるかというとそうでもない場合があります。
しかしながらその真理が自分の都合にうまく合致してくれているかどうか などということはまったく関係が無い場合のほうが多いんじゃなかろうか? とも思います。
むしろ自分が苦手であったという理由のみで、そこにいくことを今まで避けていた分野があれば、あえて非効率でもそこにいってみてとにかく最初めんどうでもそこで探してみるという作業をしてみたら
実は予想だにしていないほど簡単に結果を得ることができたなんてこともまったく無いとはいえません。
しかし、そこにない物はなく あるものはそこにしかない場合が極めて大きいのです。
※ mixi に書いた昔の日記を転載しました。
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